沿革
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信行寺の開基である聖光上人(しょうこうしょうにん・一一六二年〜一二三八年)は、浄土宗の宗祖・法然上人の教えを受け継いだ浄土宗第二祖です。法名を弁長(べんちょう)といい、聖光坊、鎮西上人とも呼ばれました。
聖光上人は筑前国香月、現在の福岡県北九州市に生まれ、幼くして出家されました。その後、比叡山に登って天台教学を学び、やがて多くの僧が修行する油山の学頭を務めるほどの学僧となられます。
しかし、聖光上人の歩みを大きく変える出来事がありました。ともに仏道を学んでいた弟・三明坊が生死の境をさまよう姿を目の当たりにされたことです。それまで長い年月をかけて仏教を学んできたにもかかわらず、人の生死という大きな問題を前に、自らの学問だけではどうすることもできない。その経験を通して、「どのような者であっても救われていく道とは何か」を深く求めるようになったと伝えられています。
三十六歳の時、京都で法然上人と出会います。そこで出会ったのが、阿弥陀さまの本願を信じ、「南無阿弥陀仏」と称えて極楽浄土への往生を願う念仏の教えでした。聖光上人は法然上人に深く帰依し、そのもとで教えを学ばれました。
聖光上人がとりわけ大切にされたのは、念仏について知るだけではなく、自ら「南無阿弥陀仏」と称え、その念仏を生涯にわたって続けていくことでした。
法然上人が亡くなられた後、その門下では念仏についてさまざまな説が生まれ、互いに論争するようになりました。聖光上人は、議論にとらわれるあまり、法然上人が最も大切にされた称名念仏そのものが失われていくことを深く憂えられます。
そこで安貞二年(一二二八年)、肥後国の往生院に同志を集め、四十八日間にわたって念仏を修し、その中で法然上人から直接受けた教えをまとめられました。
それが『末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)』です。
『末代念仏授手印』には、念仏往生の教えを中心に、読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の「五種正行」や、念仏する者の信心と実践などについて記されています。そして、自らの手印をもってその教えの証とし、後の世の人々が迷うことのないよう、法然上人から受け継いだ念仏の道を明らかにされました。
そこには、「自分の考えを残したい」という思いではなく、法然上人からいただいた念仏の教えを正しく次の世代へ伝えたいという、聖光上人の強い願いが込められています。
聖光上人は、自らも念仏を称え、多くの人々とともに念仏を修しながら、九州を中心にその教えを広められました。その姿には、学問のための仏教ではなく、生きること、老いること、病むこと、そして死を迎えることに向き合う人々のための仏教を求め続けた聖光上人の信仰を見ることができます。
その教えは、のちに「鎮西義・鎮西派」と呼ばれ、第三祖・良忠上人へと受け継がれました。そして、この流れが現在の浄土宗へと続いています。
信行寺は建保二年(一二一四年)、聖光上人が京都と鎮西を往来される折、向島の三ツ石に一草庵を結ばれたことに始まると伝えられています。
それから八百年余り。信行寺では聖光上人を開基と仰ぎ、法然上人から聖光上人へと受け継がれた「南無阿弥陀仏」のみ教えを、今日まで大切に受け継いでいます。